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堀江貴文氏に触れて思う [考え事]

         現代の資本主義を憂慮している

 などと言うと、些か大仰かも知れないただ、現在の社会・経済制度に危機感を募らせているのは事実である。競争原理、それによる利益至上を是とする経済・社会のあり方をだ。
 堀江貴文氏は、そんな現在の経済状況を象徴する存在。私の目にはそう映る。

 堀江氏が無所属ではあるが、亀井静香氏へのいわゆる刺客という形で、広島6区から衆院選へ立候補したのは、周知の事実だ。
 何かと話題になるお方。今回もマスコミは、格好の題材にしている。とりわけテレビはこぞって取り上げ、本人の出演も頻繁なようだ。
 たまたま、昨日(22日)のTBS系ニュース番組、イブニング5へ出演しているのを拝見した。

 その中で、質問に対して○×で答えるという企画をやっていた。良くある、揚げ足取りが目的のような、意味のない質問だ。
 最初の質問。
「女は金についてくる。今でもそう思っているか」
 そんな内容だったと思う。堀江氏の著書から抜き取った一文らしい。
 案の定氏はまず、下らない質問と切り捨てた。その上で、
「それなりのお金を稼げるようになれば、自信もついてくる。そうすれば、女性にも勇気を持って、声をかけられるようにもなるのではないか」
 そのような趣旨である事を説明していた。
 上記の質問にただ○とだけ答えていては、とんでもない誤解を受ける事になる。堀江氏の対応は、当然と言えるだろう。
 更に続く質問にも、
「下らない質問はやめましょう」
 と訴えながら、自身の本意を説明していた。持論を強調していた場面を、もう一つ紹介したい。
「勝ち組、負け組に分かれるのは当然」 
 
そのような意味の質問だったかと思う。それに対して、
「努力した人とそうでない人とで、差が出るのは当然」
 そう前置きした上で、
「勝ち組、負け組のように括ってしまうのが悪いわけで、価値観は人それぞれ。金持ちになるのが幸せと思う人もいるし、お金はそこそこでいい、スローライフのようなものが幸せと感じる人もいる。その人なりの幸福を追求すればいいわけで、金持ちになる事が勝ち組として成功だと、一つの価値観にまとめようとするのがそもそも間違え」
 大まかにはそのような論調で、マスコミへの批判も交えながら述べていたように思う(録画したわけではないので、詳細を述べられない点、或いは発言が完全でない点はご了承頂きたい)。 
 さすがは時の人として、多くの支持を集めるだけの事はある。しっかりとした考えと、それを主張するだけの力量を持っていると、感服した。
 マスコミ、とりわけテレビの、半ば形骸化した正義感、ある意味稚拙とも言える論陣では、到底太刀打ち出来ない。そう感じさせる論客ぶりであったとも言えよう。

 その考え、主張が、本音か建て前かは分からない。いずれにしろ、そういう意識を持っているのは間違いないだろう。
 多くの人の共感を得るのも、頷けるところだ。
 しかしその意識が、即行動に繋がるかといえば、それは甚だ疑問である。そこのところを、良く良く考えて頂きたい。
 堀江氏は価値観の多様性を認めている。富裕層になる事が成功者、つまりは勝ち組として、全て良しとするわけではないと主張している。
 しかし氏の行動は、結局のところ経済的に成功する事を目指しているように思われる。
 競争という戦い。言葉を換えれば戦争である。経済戦争に勝ち抜き、頂上を目指す。それを是としているわけだ。
「堀江貴文氏は、現在の経済状況を象徴する存在」
 私の目にそう映るのは、上記ゆえである。

 また競争は何も、企業家に限った事ではない。成果主義が導入され、個人もその能力を持って競い合っている。
 しかし最近のある調査によると、年功序列の方が良いと感じる若い世代が、増えているそうだ。
 人が人を評価する事。これは大変に難しい。
「完全なる客観性を持って、正当に他人を評価出来る」
 そんな聖人君子のような人間が、そうそういようとも思えない。
 勢い、その評価に、下された側は不満を持つ結果にもなろう。もちろん自分に甘い、実際の結果よりも大きな評価を欲しがる。そういう側面もあるだろうが。
 いずれにしても、人が人を評価するという事は、かように曖昧なものなのである。
 真面目に努力すれば、必ず報われるというものでもない。却って、要領よく立ち回った方が成果を得られ、評価に繋がる。そんな場合も多いのではないだろうか。
 故に、評価主義に対して懐疑的になる人が増えている。そのように思えるのだ。

 経済に携わる多くの人は、これからも経済は成長し続けると考えている。しかし、果たしてそうであろうか。
 資本主義という木は、これ以上は無理というほどの実をつけている。私にはそう思えてならない。つまり、限界を感じるわけである。
 充分ではあるが限られた実を、皆が競争する事で奪い合っている。そうして勝ったものが、より多くを手にする。それを良しとするのならば、それはそれで仕方がない。
 しかし、限られた実を皆で上手に分け合う。そういう考え方に、方向転換出来ないものだろうか。
 現在の資本主義は、制度としてもはや限界に来ているのだ。このままでは、いずれ破綻し崩壊する。
 近い将来、そういう日が必ず来る。いや、既にその兆候は現れている。私にはそう思えてならないのだ。


 

 


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本当の個性とその重要性 [考え事]

 ここ数年、個性の大切さが声高に叫ばれている。実際、その通りだと思う。
 では個性とは何かと問われた時に、どう答えるだろう。
「他人と違っている」
 そうしてはいまいか。
『個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質』
 広辞苑にはそう出ている。そういった意味では、間違いではないだろう。おのずと、他人と違っている事を個性と捉え、それを重視する傾向にあるのかも知れない。

 しかし他人と違っているだけでは、自身の主義主張がない。それは、多くの人と一緒である事の、単なる裏返しに過ぎないのである。
 どの程度の意見であれ、そこに自分なりの考え方が存在する限り、趣味嗜好も含めて、それがその人の個性と言って良いのではないだろうか。
 たとえ多数の人と同じ意見、嗜好であっても、そこに自身の考え、
こだわりが存在すれば、それは立派な個性となり得るのだ。
 或いは、多くの人と違っている事だけをあくまでも個性と呼ぶならば、それは大して重要な意味を持たないと考える。

 ここでブログ上のお仲間をお二人、取り上げさせて頂きたい。

 まずは自分が個性的である事に、誇りを持っておられる方。しかしこの方、単に他人と違っているだけではない。自身の確固たる信念・主張を持って発言しておられる。その着眼点や論点が独特だ。それを踏まえた上で、誇りに思われていると拝察する。

 もうお一方。この方の趣味・嗜好は広範囲に渡る。その中でも映画。スター・ウォーズのように人気の高い作品から、よっぽどの映画好きでないと知らない作品まで、お好きなようだ。
 好きにも様々理由があろう。或いは、好きに理由なんかない。そんな場合もあるかも知れない。
 いずれにしてもこの方には、みんなが観るから流行に乗る。逆に流行を避け、人が興味を示さないものを観る。どちらの発想もない。自分が嗜好するものを観る。それだけだが、それこそが肝要と考える。

 つまりは、他人と同じだろうが違っていようが、そこにその人なりの確固とした考え方、嗜好が存在する事自体に重要性を見出す。それが、意義のある個性と言えるのではないだろうか。


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携帯電話のマナーに疑問を呈す [考え事]

 携帯電話のマナー。もはやルールになっている感もある。しかし、
「果たして、それで良いのか」
 そんな疑問を抱いている。
 もちろん、その全てに対してではない。
 例えば、図書館のような静かな場所、医療機器に影響を与える恐れのある病院内。こういった場所では使用しない、或いは電源を切る。当然の事である。

 ここで問題にしたいのは、電車内での状況だ。
「ペースメーカーに影響を及ぼす可能性がある」
 既に周知の事実だ。しかし専門家に言わせると、
「影響を及ぼす恐れが、ないわけではない」
 その程度のものらしい。隣り合わせて座ったくらいでは、問題ないのだそうだ。
 もちろん、影響を及ぼす可能性がある限り、立錐の余地もないような満員状態では、電源を切る配慮は絶対に必要である。それを否定するつもりは、毛頭ない。

 一方、空いているにも拘わらず、なにゆえ使用を控えねばならないのか。更に言えば、禁止なのか。
「話している声が、他の乗客の迷惑になるから」
 それがもっぱらの理由だと思う。
 ならば連れ同士で乗り合わせ、お喋りしている場合はどうなのか。当然その声が大き過ぎれば、不快に感じるだろう。注意する人もいるかも知れない。しかし常識的な範囲ならば、皆黙認している。
 それと携帯電話での会話に、どのような違いがあるのだろうか。連れとの会話は容認されて、携帯電話だけ控えるというのは不合理ではないか。
 そもそも走行音等で、電車内はいずれ騒々しい。

 考えるに、相手があっての会話は、それこそ人類が言語を手に入れた太古から行ってきた事だ。現代人にとっては、当然誰もがしている、ごく自然な行動である。
 それに対して携帯電話は、ここ十数年で普及したもの。当初は相手のいない会話に、違和感を憶えたはずである。
 人間、自分に関係ない事、理解不能な事は排除する、或いはそこまで行かなくとも、嫌悪する傾向にある。
 そこから違和感のある携帯電話での会話に、過敏なくらいの不快感を持ったのではないだろうか。

 もう一つ、考えられる事由がある。それは、優越感と嫉妬だ。
 再び話は遡るが、携帯電話が普及し出した頃。
 使用している側に、
「どうだ、これが携帯電話だぞ」
 そんな、これ見よがしな感情はなかっただろうか。それに対して見ている側には、
「フン、新しい物を自慢げに使いやがって」
 そんな思いがあったのではないか。
 それが迷惑へとすり替わっていった。
 携帯電話以前に問題視された、ヘッドホンステレオから漏れるシャカシャカ音
。そこにも、似たような感情があったように思う。
 また、気にし出すとそれ
に囚われてしまい、嫌悪や憎悪の気持ちが増大し、一人歩きをはじめてしまう。
 携帯電話が迷惑視されるようになるについ
ては、同様の過程を辿ってきたように感じる。

 以上、二つの理由に関してはあくまでも私見であり、断定は避けたいと思う。

「携帯電話で通話している人に限って、大声を出している」
 そう感じておられる方も、過敏になっている部分がおありなのではないだろうか。
 実際に、常識をわきまえない人間が多いのかも知れない。ならば大声を出している人には、注意を促して声を控えて貰えばいい。通常の会話も含めて、それが出来ないのは勇気のなさの表れであり、ならば甘んじてその状況を受け入れるしかないだろう。関係のないところで鬱憤をぶちまけているだけでは、物事は良い方向へは進まない。
 そもそも、使用を控える事がルールとして定着している為、深く考えもせずに、鉄道会社も含め、世論を上げて問題視してはいまいか。

 人間社会の中で生きて行くには、他者との関わりは不可欠である。そんな中にあって、
「出来るだけ他人に不快な思いをさせない」
 
そう心がけるのは当然であろう。と同時に、
「多少の不快には、被る側も寛容になる」
 そのような態度も、重要なのではないだろうか。
 不快=迷惑と言ってもいい。他者と関わる限り、それらは誰人たりともまぬがれ得るものではないのだから。
 故に、他人の会話を不快に思いながらも、自分もするであろう範囲の程度なら、我慢しているのではないかと思う。
 携帯電話に関しても、同じ事が言えると思うのだが、なぜにこうも不寛容になるのであろう。元来、大声を出して迷惑をかける事と携帯電話で通話する事は、別次元の問題と考える。

 携帯電話は言うまでもなく、どこにいても離れた相手と会話が出来る、画期的な道具である。それが、電車内では事実上使えない。実に残念な事ではないだろうか。
 そもそも、仕事も含めあらゆる理由で、早急に連絡を取る必要に迫られる状況があるはずだ。
 ここで、一つの実例を紹介したい。
 私の母が去る4月、残念ながら他界した。死因はくも膜下出血。意識の戻らぬまま、24日間入院した末の事だった。
 入院中、緊急事態に備えて、常に携帯電話で連絡が取れるように、病院から要請されていた。いよいよ様態が悪化し、常に家族の誰かが付き添うように言われる。私と父が交代で、病院に詰める事になった。ある朝、私と交代して父が帰った直後。
「脈動が弱っているので、至急ご家族を呼んで下さい」
 看護師にそう告げられ、私は急いで父の携帯電話にかけた。
 父は駅でバスを乗り継ぎ、発車を待っている最中。急いで病院へのバスに乗り換え、戻ってきた次第である。
 幸いそのバス会社では、携帯電話はマナーモードにするよう要請しているだけで、通話自体は禁止していないように解釈出来た。
 しかし父と私の立場が逆で、尚かつ電車に乗っていたならどうしただろうか。もちろん、答えは一つだ。迷わず電話に出る。
 母の危篤を知らせているかも知れない電話に、電車内だからと言って出ない人間がどこにいようか。更にはその行為を咎めるような、狭小且つ冷淡、杓子定規な心の持ち主が、いようとも思えない。
 もちろん、傍目には会話の内容までは分かりようもない。だから周囲の非難する視線を感じながらの通話になるはずだ。そして終わった後、私は事の子細を乗り合わせた乗客に説明すると思う。
 それを聞いてさえ尚、電車内での通話を咎める人がいるとしたら(私はいないと信じているが)、その方が憂うべき世の中だと思う。

 以上述べてきた事を精読した上で、良く良く考えて頂きたい。
電車内では携帯電話を使用しない」
 そのようなマナー、いやルールは、果たして本当に必要なのだろうか。
「常識的な範囲で使用するように皆で心がけ、それを明らかに越えている人に対して注意を促す」
 少なくとも、それくらいの寛容さでいいと思うのである。頭から使用しないでは、宝の持ち腐れというもの。
 では常識的な範囲とは、どの程度か。それは、普通の会話に於いて許容し得る程度と言えよう。
 そもそも携帯電話での通話は、普通の会話と同様、個々人の良識の問題だと考える。
 良識のない人間が多い。そう考えて禁止する方向に持って行くだけでは、社会の閉塞感が益々高まるばかりである。

 

 携帯電話のマナーが常識となった現在、敢えて疑問を呈しました。
 もちろんマナーが常識として定着している以上、全てに於いて私もそれに従っています。
 そもそも、全くといっていいほど電車を使用しないので、そこで携帯電話が使用出来なくても、現在のところ私には何ら支障はないのですが。
 この記事は、以前書いた「正誤(善悪)は厳然と存在している」とする問題とは、離れた立場で書いています。いわば、グレーゾーンの問題として。
 煙草と違って、携帯電話で被るのは明らかに迷惑の範疇であって、実害はないはずです。従って、電車内での携帯電話使用=絶対悪とは言えない。そういう立場をとっています。もちろん、ペースメーカーへの影響は別です。それは本文でも書いている通りですので。
「他の乗客に迷惑」
 携帯電話禁止には、それ以外の理由も考えられるかも知れません。その点については、ご指摘下さい。
 共感して頂いた方は元より、異論、反論のある方のコメントをお待ちしています。
 尚、曖昧だったり言葉が足りなかったりして、誤解を受けたと思った場合は、コメントにて対応させて頂きます。
 もちろん、異論、反論に対しては、納得するかも知れませんし、更なる反論もあり得ます。
 いずれにしても、建設的な場にしたいと思っていますので、忌憚のないご意見、どうぞよろしくお願い致します。

 

 

 


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理解の重要性 [考え事]

「人は、分かろうとし、自分の分かろうとする範囲で、分かったと思い込む範囲でしか分かることができない」
 上記の言葉は「明日を拓く」の俺さん記事からの引用である。記事の全容は、こちらになる。これから述べる事は、俺さんの記事を前提にしているので、是非読んで頂きたい。それに触発される形になったのだが、以下私が考える理解の重要性について述べてみる事にする。

 まずは、俺さんの記事に関連する事から入りたい。
 括弧内の赤字で示した言葉から、導き出される理解。理解した事を、考えるという行為によって意見となる。そしてそれを語ろうとした時に、主張になるのだろう。思考の深浅が、意見の水準を決めるように思う。それには、理解の及ぶ範囲も重要となろう。理解の範囲が広く、思考が深ければ、自ずと意見もより説得力を増す事になるはずだ。
 以上は、俺さんの記事を拝読しての、私なりの解釈、感想でもある。

 次に上記とは別に、私が常々感じている理解度の重要性について、一つの事例を取り上げる事によって述べてみたい。
 仕事をする上で、上司が部下に複数の任務を指示する。良くある光景だろう。上司は事細かに説明し、
「何か分からない事があれば質問しなさい」
 と、最後に訊ねる。しかし、部下に質問する事はなかった。
 上司は、部下が全て把握したものと見なす。
 ところが仕事を終えてみると、不足な部分があった。上司は当然叱責する。
「だから言ったじゃないか。分からない事があれば質問しろと」
 しかし部下にしてみれば、その時は自分なりに全て理解したつもりでいた。となれば当然、質問する事など思いつくはずもない。

 上の事例で言えるのが、理解度の重要性だろう。相手の言わんとしている事をきちんと把握し、理解する。更には早合点な思い込みを排し、正確を期す。
 しっかり考え、整理し、疑問点がないか自問する。疑問点があれば、相手に問う。そうやって、自分の中で煮詰めていく。それが、相手の言わんとするところを正確に理解する上で、重要になるのではないか。
 理解度が低ければ、当然相手の真意は伝わらない。各々が、理解力を高めようと勤める事が肝要と言えよう。
 また伝える側にも、自身の言わんとする事、或いは真意を、全て正確に伝えようとする努力が必要なのは言うまでもない。
 何もこれは、仕事に限った事ではない。日常生活に於いても、他者と円滑にコミュニケーションをとる上で、欠かせない事だと思う。

 実は俺さんの記事を拝読していて、理解の重要性とともに、個性の重要性についても思いが及んだ。そこで、ここで合わせて述べようと思ったのだが、どうも論点がずれる。
 個性に関する主張の焦点がぼやけ、埋没しかねない。
 そこで個性の重要性については別の機会に譲り、改めて独立した記事として公開したいと考えている。


  


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こちらを立てればあちらが…… [考え事]

 ここのところ、我が街柏を取り上げる事が多い。ご覧になった方はお分かりかと思うが、私は柏市が大好きで、思い入れもある。
 郷土愛とでも言おうか。それ自体は良い事だと考えているので、盛んにアピールしている。

 しかし、別の角度から眺めてみると、それは他の地域をないがしろにしているというか、軽んじている事に繋がりはしないだろうか。客観的に読み返してみて、そうも思った。

 特に、柏市と隣接している地域に対して、そう感じた。
 話の成り行き上、他市を引き合いに出して柏を持ち上げている表現もある。もちろん、他市をおとしめる事が本意ではない。柏を思う余りの記述で、その点は多いに反省もしている。

 しかし、柏市に生涯住み続けたいという思いも事実だ。現在は、古くからある団地での借家住まい。もし仮に、家が持てるようになったとして、その場合でも柏市に持ちたいと思っている。
 見ず知らずの遠い地は論外としても、柏以外の近隣市にさえ住みたくないわけである。

 そこから言えるのは、私の中ではやはり柏が一番だという事実だ。他の各市を、嫌いとまでは言わないが、下に見ているのは否めない。しかしこれは、個人的嗜好の問題でもあるから、仕方がないと思って頂きたい。
「こちらを立てればあちらが立たず」
 嗜好の問題とはいえ、心苦しい部分ではある。

 冒頭でも触れたように、自分の住む地に愛着を持つというのは、悪い事ではないだろう。これからも折に触れ、柏市をアピールしていくつもりである。
 皆さんも、ご自身の住む地域に、愛情と誇りを持って頂きたい。
 特に柏市と隣接する、松戸、流山、野田、我孫子、印西、白井、鎌ヶ谷。それぞれ各市にお住まいの皆様方へ。


彼の閲覧数はなぜに多いのか [考え事]

 ブログのお仲間であるkenskishさんから、以下のように尋ねられました。


決して優越感を持ってるわけでも、「判ってるくせにぃ」って云われたいわけでなく、本当に不思議であって、基準が判らないのです。
確かに閲覧数が伸びるのも頭では早いとは思いますが、その理由が未だに釈然としないのです。
他にも真面目にブログを書いている方は沢山いらっしゃいます。数字を気にしてない方も当然いらっしゃるとは思うのですが、僕の場合、何故こんなに閲覧して頂けるのでしょう・・・マジでわからんのです・・・(苦笑)・・・自分でいうのも何ですが。やっぱり書いてる量は莫大だから?
で、書いてる割にコメントを頂く量は多いとはいえません。(読み捨て?笑)
eikoh さんが横から (まあそういう感じがするので 照) ご覧になって正直どう思われますか?コメントでも記事としてでも良いので忌憚の無いご意見でお答えいただけると幸いです。


 尚、上記のコメントが記載されている記事はこちらです。

 

 私はライブドアや楽天をはじめ、ソネット以外のブログも良く閲覧し、コメントもしている方だと思います。
 そんな中には、kenskishさんのように閲覧数を記事にして、謝辞を述べられている方も何人かいらっしゃいます。その方々と比べてみても、kenskishさんの閲覧数は多いというか、増えるペースが速いようです。

 なぜなのか。
 まずはご本人もおっしゃっている通り、書いている量が莫大だから。それは第一にあげられると思います。記事数の量に比例するように、閲覧数も伸びるのは間違いないでしょう。
 また、単なる数だけではなく、記事の増えるペースです。kenskishさんは、一日に複数の記事を公開されています。そのネタの豊富さには、感服するばかりと言って良いほど。
 ある方のブログに「20000アクセス達成」というような記事がありました。その中で、記事2連発も作戦云々なる表現もありました。
 kenskishさんにはもちろん、そのような目論見はないでしょう。ただ溢れ出るアイデアを、意のままに書いておられるのだと思います。
 ただ閲覧する側からすると、新しい記事が公開さている場合、どうしても全て見たくなりますね。従って新規記事が多いと、それら全てを見る事により、勢い閲覧数増にも繋がるでしょう。
 しかしそれも、リピーターがあって言える事だと思います。一見さんでは、なかなか全て見るまでは行かないでしょうから。
 ではなぜ、リピーターになるのでしょうか。それはそのブログの記事が、読むに値する、もっと読んでみたいと思わせるからではないでしょうか。面白くもない記事を読んでいるほど、人は甘くも暇でもないはずです。
 週間アクセスランキングや、コメントの多い記事を拝見していると、テレビや映画、或いはグッズから時事まで、その時に旬であるものを扱った記事が良く閲覧されているようです。多くの方が興味を持つという点では、当然かも知れません。
 その点kenskishさんの記事は多彩です。ありとあらゆるものを題材にしておられます。中には、多くの方が興味を持つ題材も多い。必然的に、多方面から閲覧者が訪れる事になるのだと推察します。
 以上が、kenskishさんのブログの閲覧数が多くなるゆえんと、私は考えます。

 蛇足ながら付け加えておきますと。
 コメントをした後、それに対する返事を期待して、頻繁に見に行く。そんな場合もあります。故に相手の閲覧数も増える。しかし、kenskishさんはその応答が比較的早いので、これには当てはまらないでしょう。

 また、書いてる割にコメントを頂く量は多いとはいえない。
 これに関しては、コメントを書く側にもそれなりの労力がいります。
 一日に複数公開される記事全てにコメントする事は、正直言ってなかなか出来ません。従って、その中から特に惹かれた記事にコメントする。そんなところもあるのでしょう。これは私自身、様々な方のブログでコメントしている事もあり、そうしているのですが。
 従って、記事に対するコメント数よりも、その日一日に対するコメント数で考えた方が良いかと思います。

 尚、kenskishさんのブログ、大変興味深いと思いますので、推薦致します。トップページは、以下からどうぞ。

          http://blog.so-net.ne.jp/kenskish/

 

 ここで述べた事は、閲覧数をアップさせる方法とも考えらますね。なかなか、やろうと思って真似出来るものではないでしょうが。ただ、閲覧数アップの観点から言えば、他者のブログにコメントやトラックバック、更にはソネット独自の機能ですが、nice!を付けてくるのも手段かと思います。
 これらはそれ以外にも、親しくコミュニケーションするお仲間を増やす事にも繋がります。私の場合は、主にそれを目的として行っており、実際に親しいお仲間が何人も出来ました。
 ただトラックバックに関しては、ともすればトラブルに発展しかねない問題もはらんでいます。それについては、また別の機会に書き、公開したいと考えています。


 



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私も知りたい浅草寺 [考え事]

どなたか教えてください
場所は東京、浅草。

浅草神社はなぜ「あさくさじんじゃ」で、浅草寺は「せんそうじ」なのでしょうか。子どものなぞなぞみたいですけど、教えてください。

 

 上の文章。okkoさんのブログからのトラックバック引用なんですがね。
 囲みの「どなたか教えてください」をクリックすれば、元記事へ飛べます。
 これを拝見しまして、私も知りたくなったんですね。この知りたがり、殆ど病気です。
 で、ネットでちょっと調べてみたんですが分かりません。
 ただ広辞苑には「せんそうじ」「あさくさでら」両方出てるんですね。
 そこで私、閃きました。これから一つの推測を述べさせて貰います。

 そもそもお寺は「○○じ」と呼ぶ事が多いですね。「とうだいじ」然り「えんりゃくじ」然り、また「ぞうじょうじ」然りと、例を挙げたらきりがありません。
 一方「○○でら」と呼ぶお寺も、少ないですがありますね。「きよみずでら」ですとか……。それしか思い浮かばなくて、すいません。まぁ、いずれ少数派ではあります。
 そして「浅草寺」と同じく「○○じ」「○○でら」と、両方で呼ばれるお寺もあるわけです。ここで思い浮かぶのは、日蓮聖人が幼少の頃に修行した事で知られる「清澄寺」
「せいちょうじ」が正式らしいですが、通称で「きよすみでら」とも呼ばれてます。

「浅草寺」
 東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像をまつったのが始まりと伝え、円仁・頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として信仰を集めた。浅草あさくさ観音。
「広辞苑第五版」では、そう説明されてます。

 いつから「浅草寺」と呼ばれるようになったのかは、定かではありません。でも、浅草にあるから「浅草寺」なのでしょう(もしかして、逆かも)。
 一般的にお寺は「○○じ」と呼ぶ方が多いから、元々「あさくさでら」だったのを、訓読み(?)にして「せんそうじ」とも呼ばれるようになった。更にはその読み方の方が普及し、やがて一般化したのではないでしょうか。

 以上が、私の推論です。推測ですから、もちろん当てになりません。
 私からもお願いします。本当のところを知ってる方がいらっしゃったら是非教えて下さい。
 もちろん、上記okkoさんのブログへでも構いませんので。と言うよりも、言い出しっぺはokkoさんですから。よろしくお願いします。

 尚 「MonDo」からも質問してみました。

 ちなみにokkoさん。ホームページも運営されております! ご自身のプロフィールからも行けますが、興味を持たれましたら、下記から直接どうぞ。

          「72歳のチャレンジ」


喫煙は悪である [考え事]

 早速だが前回書いた、
「正誤は厳然と存在している」
 と私が思う事例について、書いてみたいと思う。

 以前私は、このブログ上で禁煙宣言をした。しかしなかなか思うに任せず、断念。自分の意志の弱さを恥じ入るばかりである。
 取り敢えず、現在私は喫煙者だ。

 世の中、全世界を上げて禁煙、嫌煙ブーム。いや、もうブームを通り越して、常識として定着した感もある。
 公共の
場で喫煙出来る場所は殆どなくなり、あっても屋外の限られたスペースのみ。分煙として、喫煙席を設けている飲食店もあるが。客商売だから、苦慮されている部分ではあろう。
 我が柏市も、条例で歩き煙草が全面禁止になった。特定区域では、過料もされる。

 喫煙所でも、肩身の狭い思いをしながら煙草を吸っている。見ず知らずの御同輩と、文字通り肩を寄せ合いながらなんて事もある。そんな時、決まって話題に出されるのが、次のような意見。
「我々にだって、煙草吸う権利はあるよな」
「バカにならない税金払って、貢献してるんだから」
 もちろん真剣にではなく、半ば自虐的にぼやいておられる。

 非喫煙者には、副流煙による受動喫煙という問題がある。何でもこの副流煙、自ら吸い込む主流煙よりも害が大きいとか。
 喫煙者は、主体的に煙草を吸っているわけだから、健康被害も承知の上。もちろん私自身、健康を害するのは嫌だが、いわば自業自得というもの。
 それに対して非喫煙者が、その意に反して副流煙を吸い込む。しかもその方が、健康被害も甚大。となればもう、迷惑の範疇を越えている。極論すれば、命に関わるのだから。

 以上、いかがだろうか。
 喫煙者がいかに自分の立場を主張しようが、正論としては通らないだろう。従って、

「喫煙は、善悪の観点から見て悪」

 そのように、厳然と言う事が出来ると思う次第である。

 

 「正誤(善悪)は厳然と存在している」
 それは即ち、誰の目から見てもそのように映る、至極簡単で当然の道理になるでしょう。もし異論が少しでもあり、そこに説得力を見いだせるならば、成立しない事になります。
 従って、この記事で主張している理由から、
「喫煙は、善悪の観点から見て悪」
 そこに一つでも見解を異にする意見を見出せるならば、喫煙を悪と決めつける事は出来ません。
 私はこの記事のように考えますが、皆さんはどうでしょう。
 ご意見、お待ちしています。


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正誤は厳然と存在している [考え事]

 皆さんのブログを拝見していると、様々な事を書いていらっしゃる。
 日常の出来事、趣味や嗜好の事、ペットについてなど。素敵な写真を掲載されている方も、いらっしゃるようだ。

 そんな中にあって、自分の意見や考えを主張している記事も、多数存在する。

「見方は人によって様々。また、見る角度によっても異なる。それぞれの意見を尊重することも大切である」
 そんな物分かりの良い、寛大な見解を示している方も少なくない。
 決して、皮肉を言っているわけではない。私自身そういった考えのもと、書いた記事もあるからだ。

 一方では、ある時事ネタに関して批判し、正論として自分の見解を主張している方も多い。
「なるほど」と思う場合もある反面、「ちょっと違うのでは」と感じる事もある。
 時事ネタ。特にその対象が個人である場合、当事者でなければ分からない部分もある。その為、決めつけるには少々材料が足りないように思うのだ。
 中には単なる批判ではなく、独自の卓越した切り口から問題提起をしている方もいらっしゃる。そういった記事を拝読するにつけ、頭の下がる思いがする次第だ。興味をお持ちになったなら、こちらをご覧頂きたい。
 私も時事、ニュースに触れて思うところはあるが、残念ながら問題提起するほどの力量を持ち合わせていない。従って、今のところ取り上げないようにしている。

「見方は人によって様々。また、見る角度によっても異なる」
 先にも書いたが、世の中、多くの事象はそう言えるだろう。しかしだからと言って、
「全ての問題に、白黒つける事など出来ない」
 そうだとも思ってはいない。
 正誤がはっきりしている事柄も、厳然と存在しているのだ。

 次回(明日)の記事で、私がそう考える事例の一つを取り上げてみたい。更には他の事例についても、追々書いていきたいと考えている。もちろん、異論、反論も覚悟の上で。


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ブログのコメント [考え事]

 私のブログ記事に対するコメント。あまり多くないですが、頂けるとやはり嬉しいものです。てすので、ある意味記事よりも真剣に考え、返事のコメントを書いております。

 私もRSS登録している方を中心にブログ巡りをしながら、心に引っかかった記事にはコメントしております。そうしたコメントには、皆さんほぼ返事を返してくれますね。そうやってコミュニケーションをとるのも楽しいものです。
 そういうわけで、自身の記事を書くよりも、時間を割いているかも知れません。

 これからも積極的にブログを見て回り、コメントを落としていきますので、皆さんどうぞよろしくお願いします。


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