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動物を戦わすべからず [考え事]

 闘牛という見せ物がある。勇猛な牛を相手に、闘牛士が華麗な手捌きで背中に槍様のものを突き立てていく競技だ。
 テレビ等で目にする度に、沸々と怒りが湧いてくる。
 動物愛護団体は、なぜ問題視しないのか。或いはしているのかも知れないが、少なくとも表立って私の耳には届いていない。
 たまに目にするだけで腹が立つくらいなので、詳しい事は知らない。最後どうなったら、闘牛士の勝利なのか。牛が息絶えるまで、槍を突き立てるのだろうか。
 スペイン人には、恨みも偏見もない。しかし闘牛を見ていると、蛮行に思える。大航海時代、新大陸の先住民を蹂躙し尽くした人間の血を引いているからかとも、思いたくなると言うものだ。

 別に動物が戦うのは、かの闘牛に限った事ではない。
 動物同志を戦わせる闘牛、闘犬、闘鶏。数え上げたら切りがないくらい、世界各地にあるだろう。
 日本も同様だ。
 動物たちを戦わせて、或いはそれを見物してだ。彼らが傷つくのを見て、どこが面白いのだろうか。

 人間同士が戦う格闘技も、古くからある。それはそれでいい。
 人間の場合動機はどうあれ、自身の意志で戦っているのだから。
 しかし、動物は違う。人間の娯楽の為に戦わされている。
 闘争本能が強く、戦わずにはいられない。そういう意見もあろう。しかしそれにしても、人間が生み出し、そのように仕立てたものだ。動物自身がどう思っているかなど、本当のところは分かるはずもあるまい。

 古代には奴隷とした人間を、死ぬまで戦わせる事を見せ物とした事もあった。自分の意志とは関係なく。
 考えてみて欲しい。もし、自分がそう言う立場に立たされた時の事を。
 それといっしょである。食用に屠殺するのとは、根本的に違う行為だ。
 最後に、動物たちを戦わせ、それを見物して喜んでいる輩に、声を大にしてもう一度言いたい。
 
動物が傷つくのを見て、そんなに楽しいのか。そんなに面白いのか。
 私には、到底理解出来ない。そして、絶対に許せない。


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Baldhead1010

人間の思い上がりですね。
by Baldhead1010 (2005-11-22 08:12) 

cleanair

私も同感です。
それと併せて、最近のゲームってやたら残虐になったのを危惧します。
最近CMでやっているのは○千人斬り(だったかな)とか出来るゲームがあるみたいです。あとファミコンウォーズ(だったかな)というので戦争するゲームがあるみたいです。
ある程度は許せると思うんですけど、明らかに「人を殺す目的」以外に目的が見えないゲームは腹立たしいものがあります。
戦争のゲームをやって戦争のむなしさなどを学べればいいですが、単純に人を殺すことに快感を覚えさせるような作り方はやめてほしいです。
http://blog.livedoor.jp/cleanair/
by cleanair (2005-11-22 09:05) 

okko

スペインの闘牛については、いささか薀蓄を持っていまが、信憑性については、ある作家の本を読んで成る程、とおもっただけですから。
彼らは闘牛の牛を、動物とは思っていなかったようです(現在は知りません)人間同士の決闘と同じ感覚だった、闘牛士が殺されるのもしばしば、彼らは死を覚悟して礼拝堂で祈りを捧げてから決闘に臨んだといいます。1つの儀式だった、だから、立派に闘って死んだ牛に対しては丁重な扱いをして葬ったそうです。
「午後の死」というへミングウエイの作品でそれを知りました。
それと動物虐待と何処が違うといわれても、それは長い歴史が培った国民性の問題ですから、理屈では計れないでしょう。
闘牛も最近は、本来の意味が失われつつあるといいます。闘犬、闘鶏などは私も見たくありません。格闘技という人間同士の闘いも嫌いです。闘牛以外については、eikohさんと全く同意見です。拙ショートエッセーの「矛盾」を読んで頂ければ、私の考えは理解して頂けるかと。
by okko (2005-11-22 10:11) 

えむぬま

動物同士を戦わせて喜んでいる人は、目の前で行われている行為に生き物の生死が関わっているコトは見えていないのでしょう。見えているのは勝負の結果で動く「カネ」だけなのでしょう…。ギャンブラーって人種の考えることは私には理解できません。
by えむぬま (2005-11-22 22:10) 

トム

難しい問題すぎてノーコメントです。
きっと対象物が変わって立場が変われば意見も違うでしょう。
自分の好きなものが対象だったら絶対許さないでしょう。
by トム (2005-11-22 22:53) 

eikohさんのお気持ち、痛いほどわかります。
僕自身も、まぁ・・・見ないようにしてますね。
牧場とかで牛を見たりしたこともあるのですが、あの目を見ると、いとおしくてたまらないですから。
okkoさんやcleanairさんのコメントも、すごくわかります。
神聖な儀式・・・でも、やっぱり、いたたまれないというのが、僕の正直なところです。
by (2005-11-23 00:30) 

えいこう

Baldhead1010さん
nice!ともども、ありがとうございます。
私は全ての生き物を、人間とは同等とは言わないまでも、大切な命と考えています。おっしゃる通り、人間の思い上がりですね。

cleanairさん
ゲームに対するお考え、理解出来るような気がします。
最終的には、個々人の責任によるかとは思います。
しかしゲームは、善悪の判断をつける能力が充分とは言えない子供もプレーします。
売る側もただ儲け主義に走る事なく、節度ある作り方をして貰いたいものです。

okkoさん
異なった見解もあるという事で、貴重なご意見として賜りました。ありがとうございます。
当事者のやり方、心構えの一端にも触れたように思います。
ただそれでも私としては、スペインの闘牛に対してもやはり、なるほどと許容出来るものではないんですね。
「人間同士の決闘と同じ感覚だった」
人間である闘牛士は、死を覚悟の上で戦うのもいいでしょう。人間同士が戦う格闘技といっしょで、自分の意志としてだからです。
衝撃映像などで、危機に陥った闘牛士を助けているのを目にするにつけ、牛を見殺しにするのならば、闘牛士も助ける必要はない。そんなふうに思ってしまいます。
私は全ての生命を、ほぼ同等と見なしています。人間だけを、特別視する事は出来ません。もちろん人間として、自分の身を守る為に他の動物を殺生するなとまでは言いませんが。こういう考え方は、なかなか理解して貰えないもののようです。
さて、死を覚悟して臨む闘牛ですが。闘牛士に関しては、上記の通りです。しかし果たして、牛にその覚悟をする必要があるでしょうか。またそれを強いる権利が、人間にあるでしょうか。
「立派に闘って死んだ牛に対しては丁重な扱いをして葬った」
ある意味、当然です。
しかし古代の奴隷のように、人間同士がその意に染まず殺し合いを強いられたとします。その結果、殺された側が懇ろに弔われれたとして、それで納得出来るでしょうか。
自分がそう言う立場に立たされた時の事を考えるというのは、そう言う事です。
「長い歴史が培った国民性の問題ですから、理屈では計れない」
果たしてそうでしょうか。人間の歴史や習慣、そんな物は動物にとって、一切考慮の外です。それに巻き込んで考える事こそ、人間の勝手な理屈ですね。
以上のような理由から、スペインの闘牛も、他の動物同士を戦わせる行為と同等。私はそう考えるのです。いや、その残虐性ゆえ、むしろこちらの方が許し難い。
okkoさんの格闘嫌いは理解出来たつもりです。図らずもそのコメントに、反論するような形になってしまいした。しかし非難するつもりも、否定するつもりもありません。ただ、okkoさんがお読みになってなるほどと納得した事に対して、私も同様に納得は出来ないだけです。
また、私の感情から来る考え方が唯一の正論だと、そう言うつもりもありません。
ただ感情論として、私としてはスペインの闘牛も、okkoさんが嫌う他の格闘同様、許容出来ないのです。
以上私の思いを、汲み取って頂けましたでしょうか。
尚、食用の為の殺生も、理屈の上では納得出来ません。しかし、生きると言う事は、即ち食べるという事です。それは人間に限らず、どんな動物でもそうですね。食を否定するのは、自ら生きる事を否定する行為です。そして動物に限らず、植物も生き物ですね。従って食べる為の殺生は、やむを得ない事と考えています。
それが、人間の都合による見せ物や儀式の為の殺生行為と、食べる為の殺生行為は別物と、自らに納得させているゆえんです。
従ってどんな宗教であっても、或いは伝統ある儀式でもです。生け贄として殺すだけ、或いは傷つけるだけの行為。それも私としては、あくまでも私個人の感情ですが、許し難いのです。この際、人間の勝手な都合は、関係ないんですね。

それはそうと。okkoさんのHPのショートエッセー。また過去の分を見る箇所が本文と重なってしまっていて、クリックしても反応なしです。困りました(苦笑)。

えむぬまさん
nice!ともども、ありがとうございます。
ギャンブルのように、自分の損得がかかっている場合は、尚更他者の痛みなどは分かるはずもないでしょう。
余計に、悲しい事です。

ホシさん
nice!ともども、ありがとうございます。
私も、自分の考え方が、唯一正論だと押し付けるつもりはありません。ただ、感情的に許せないんですね。
こう考えたらどうでしょう。
確かホシさんも、ネコを飼っていらした。私もご存じのように、ネコと暮らしています。例えば拙宅のネコが、殺されてしまった。私が感じる悲しみほど、ホシさんが感じないのは当然でしょう。逆の場合でも、同じだと思います。
誰でも自分に近しい悲劇ほど悲しいし、許せない。
しかし客観的に見れば、どちらも同じように許容し難い事でしょう。
他者の立場に立って考えるとは、そういう事だと思います。同苦するという事です。

誠大さん
nice!ともども、ありがとうございます。
誠大さんのお書きになる詩のイメージからすると、そういうコメントを頂けるのも分かります。
私も、okkoさんのご意見は敬重させて頂きました。図らずも反論のような形になってしまいしたが、そちらへレスした通り、非難も否定もしません。今回の記事も、私の感情から来る一つの考え方に過ぎませんし。
ただ、スペインの歴史や習慣の一端を知っても尚、私自身の心情としてそれを理解、許容出来ないのは、やはりそちらのレスに書いた通りです。
by えいこう (2005-11-23 02:29) 

トム

補足させていただきます。
正直なところ全ての動物に対して人間と同じだけの感情を持つことは出来ません、それをしたら人間社会が成り立たなくなるからです。
では必要のある動物の殺生は許して、必要のない殺生は許さないということも出来るのですが。
それはすでに人間側の都合なんですよね。
食用の殺戮だろうが闘牛だろうが片方だけを悲しく考えるのは人間の感情の問題だけであって牛がわからしたらどちらも殺されることに違いありません。
では人間は殺しては駄目だけど動物は殺してもいいのか?
それはありません同じ生き物ですから、でも人間は動物を殺してるその理由どうだろうが全て人間の都合です。
理由で線引きするのは不可だと思います
じゃあ種類で線引きするかそれも不可だと思います

以上は感情についての話です、線引きしてかわいそうだと思うのは何か誤ってる気がするんです。

でも実際の問題として無駄殺生は控えなければ為りません、だから闘牛も個人的には止めるべきだと思っています、でもその後食べるのだったら??と思ってしまいます。

ただ殺し方としてはじわじわと殺して幾分だけ牛自信もそれならば肉用の牛のようにスパッと殺して欲しいと思うかもしれません。

でも猫とか犬が同じように殺されたら無条件で怒りを覚えます、動物で分けていること自体自分のエゴですが、エゴと認識した上でも反対します。
自分がエゴイストということから平等な意見は出ないということでノーコメントにしました。


この件に関してはジレンマを抱えています、人間である限り菜食主義者でも避けられないでしょう。
結論は出ないとおもいます、悩むこと模索することが人間が人間自身にかせるべき業なのかもしれませんね。
by トム (2005-11-23 07:03) 

okko

eikohさん
結局はホシさんのコメントに還るような気がします。それをエッセーに書いたのですが、「ダブル?」はて?何故だろう。
菜食主義者になり切れない自分を歯痒く思う時が間々あります。結論を出す必要もないでしょうし・・・
by okko (2005-11-23 08:57) 

okko

追伸 皆さんが意見を出し合って、意義のある討論ができたと思い、感謝しています。それぞれのお気持が伝わって。
いまチェックしましたが、当方のHPでは通常通りです。
見てくださるかたのパソコンによって、映りかたが違うと先生には言われているので、細心の注意は払っているのですが。第6回目です。
by okko (2005-11-23 09:12) 

えいこう

ホシさん
補足のコメント、ありがとうございます。
ホシさんの考え方。ジレンマも含めて、良く理解出来ました。
同じ死ぬ(殺す)にしても、苦しまずに死ぬ(殺す)方がまだしも。私も同意見ですし、多くの人が思うところでしょう。
生き物(動物)によって分けるエゴ。つまりは生き物によって、殺された時の怒り度合が違う。それが普通の感情でしょう。
ただ私の場合、okkoさんへのレスにも書いたように、全ての生命をほぼ同等と見なしてしまう。それが極端すぎるのだと思います。
食用の為の殺生についても、okkoさんへのレスに書いた通りです。そう思うようになるまで、一時期真剣に考えました。菜食主義も、対象は植物という生命ですから。
食べる事は罪である。しかしそれをやめる事は、死ぬ事である。自殺も真剣に考えました。
しかし全ての動物は、なにがしか他の生命を食べて生きている。人間も例外という事はない。そう思った時に、食べるという行為は理屈の上では納得出来ないが、いわば必要悪として仕方がない。そう自分に納得させました。
生きなければならないのならば、その為の殺生はやむを得ない。あくまでも、やむを得ないです。それが自然の摂理でもあるからです(人間がその知恵によって、食用の生き物を生産している。それはまた、別次元の問題です)。
自分の身を守る事を含めた生きる為の殺生と、それ以外の殺生との間に、明確な線引きをする。もちろんそれが正論、最終的な結論だとするつもりはありません。しかし、他の生命を奪う事の是非を真剣に考えた末に、私が出した取り敢えずの答え。いわば割り切りなのです。
もちろんそこには、ホシさんやokkoさんが訴えるジレンマを内包している事は、言うまでもありません。従って、ホシさんの意見に反論するものでも、否定するものでもありません。その意見に賛同した上での、私なりに生きていく為の割り切りとご理解下さい。
尚、下のokkoさんに当てたレスも、是非お読み下さい。

okkoさん
ホシさんのコメントは、私もその通りだと思います。それを踏まえた上での、私からホシさんへのレス。それも是非お読み下さい。
okkoさんのコメントのお陰で、私もより深く自分の考えを述べられました。それから、やはり抱えている方がおられるだろうジレンマも、うかがい知る事が出来ました。更には、それを悩んだ末に私が辿り着いた一つの割り切りも、披瀝する事が出来ました。
私も、大変感謝しております。ありがとうございました。

okkoさんのHP。やっぱりPC環境によって、不具合が出るようです。
以前は辛うじてクリックして飛べる位置に、過去の回の表示がありました。でも現在は、完全に本文と被ってしまっていて、クリックしても反応しないんです。困りましたが、どうにもなりませんねぇ。
by えいこう (2005-11-23 15:57) 

ecco

単純に動物を戦わせる『娯楽』的なものは
私も賛成しかねます。
だた。
なんともいえません。

毎日たくさんの豚肉や鶏肉を
食べ続け。
サカナも牛も羊も人間は食べている。

狩りをしてその日の獲物をとるという時代ではない
今の食料としての動物たち。

それを大量に消費する人間。

そんななか。
闘牛がどうだとか
私にはいえないのです。
by ecco (2005-11-23 16:40) 

えいこう

eccoさん
その意見も良く分かります。
食用として生産される動物の事を考えると、また別の方向へ話は広がっていきますが、概ねホシさんやokkoさんとのコメントのやり取りに集約されるかと思います。
食べる為の殺生には、矛盾とジレンマを含んでいて難しい。それを娯楽としての殺生と合わせて考えると、明確な答えはなかなか出せないでしょうね。
by えいこう (2005-11-23 22:16) 

トム

eikohさん
すみません自分のレスしか見てなくて、OKKOさんへのレスと大分かぶってましたね。
ノーコメントで通すべきだったかもしれません。
でも触発されてしまって。こういうの(討論)結構好きかもしれません頭が活性化されます。
by トム (2005-11-23 22:33) 

えいこう

ホシさん
いえいえ。私もお互いを尊重しあった上での前向きな議論は、大歓迎ですよ。
ホシさんの意見には説得力があり、十分納得出来ましたし。
さきほどokkoとも、メールで同様のやり取りをしました。
これからも、よろしくお願いします(笑)。
by えいこう (2005-11-24 22:55) 

えいこう

torichin画伯
nice!ありがとう(笑)。
by えいこう (2005-11-24 22:56) 

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